もし一介の若手教師が『教育』について追究し始めたら

関心のある事 ①生き方,夢について ②探究のプロセスを重視した授業と資質・能力について ③『学び合い』について ④総合的な「探究」の時間について (神奈川県立高校の理科教師 3年目。)

【自己肯定感を育むためには、教師を受けとめなければならない。】

今、私立中高一貫の先生(副教頭の役職で活躍中)に相談役になってもらい、

校内の教員研修や組織づくりの具体的な運びを検討している。

 

大筋のデザインは、

①核になる職員に「受けとめられる」ことを体感してもらい

 その在り方を習得してもらう

②全体研修で職員全員に「受けとめられる」ことを体感してもらう

③核になる職員を中心としながら「受けとめ合う」組織を維持し文化として根付かせる

といったものだ。

 

生徒の自己肯定感を高めることも、

探究活動のなかで生徒の力を引き出して伸ばすのも、

安心・安全の場というか、受けとめられる環境が

先ず以て重要になってくる。

 

特にうちの学校では

自己肯定感が低い生徒が多くみられる(というか感じる)ため、

教室で生徒の存在がまず積極的に「受けとめられる」ことがとても重要になる。

 

それによって、生徒集団(学級集団)も「受けとめ合う」ように成長していく。

 

こうやって安心・安全で、ありのまま受けとめられることによって

自己肯定感が高められる場をつくる。

 

こんな感じ。

 

そこでカギになるのは、

「教師が生徒の存在を(対等な存在として)まず積極的に受けとめる」

ということ。

 

個の大切さを今日強く感じた。

 

あるクラスで授業中、いつも通り存在を尊重しつつ

頑張って取り組んでいる姿をまず承認していく。

 

そんな生徒の一人が、今日も頑張ったと言わんばかりに

授業後教卓まで来た。

 

少し話していたら、次の授業の先生が来て

プロジェクタのセッティングを始めた。

 

その生徒はその流れで、教卓でスマホをいじっていた。

すると、その先生は、

その生徒がまるでいないかのようにセッティングを続けていった。

 

そしてその生徒が、

「じゃまだなー」と

悪気もなくぼやくと、

その先生に「じぇまなのはお前だよ!」と

まあまあ強めに注意(?)をされた。

 

その生徒は落ち込んだような様子で、なにも言わなくなり

いたたまれない表情で、そのまま黙って教卓でスマホをいじっていた。

 

とても悲しくなった。

自分があれだけ精神を使って自己肯定感を高めようと働きかけている一方で、

ああやって生徒と接している先生もいるんだな、と。

それ以上に、あの生徒の様子を見ていて、子どもだからと上から理不尽なコミュニケーションをとられ、

いたたまれない様子の生徒を見ていて悲しくなった。

 

ただ、

その先生は悪い人ではなく、

他の先生が嫌がる仕事も積極的に引き受けてくれる先生だ。

再任用にもかかわらずにフルで、それ以上に働いてくださっている。

 

そして自分の普段の態度を省みて、

その先生に対して「受けとめる」接し方ができているかというと

全然そんなことはなく、「仕事があるから早く話してくれー」と思いながら

話しを聞いている自分もいたことを思い出す。

それはきっと表情に出ているだろうし、その先生にも少なからず伝わってしまっていると思う。

 

仕事だから、というのは確かにあると思うが、

それがその先生から余裕を奪い、「受けとめられる」感覚を

忘れさせる要因にもなっているかと思うと、深く反省した。

 

最終目標に、生徒の自己肯定感を高めることがあるとするのなら、

職員室で先生が受けとめられることを実感できる環境をつくることも

大切な仕事なんだと感じた。

 

遠回りになるかもしれないが、

そうしないとせっかくの自分の働きかけの効果は相殺されてしまうだろうし、

そもそも、

人が生き生きと生きる社会にしたくて、そのためには受けとめ合う文化は必須だから

職場からそうやって文化を変えていくことは、自分の理念と相反するものではなく

逆に向かうべき方向でもあるはずだ。

 

だからこそ、まずは小さなことでも日々の関わりのなかから、

そして研修会を通して、組織づくりに力を入れたい。

 

そのために「愛」を、自分から始めるべきだ。

 

そのために、心を整えておかねば。