もし一介の若手教師が『教育』について追究し始めたら

関心のある事 ①生き方,夢について ②探究のプロセスを重視した授業と資質・能力について ③『学び合い』について ④総合的な「探究」の時間について (神奈川県立高校の理科教師 3年目。)

【横のつながりと同等に重視されるべき、縦のつながり。】

クラスでも、『学び合い』の考え方は重要な柱として活かしている。

 

教師一人では成せないことも、

生徒集団とであれば成せてしまう。

 

だから生徒どうしの、いわゆる「横のつながり」をつくれるように

リーダーとしての働きかけを続けてきた。

 

ただ、今日は「縦のつながり」の重要性を強く感じた。

 

簡単に解釈すると、

先生に教えてもらってできるようになりたい

という生徒がいるのだ。

 

この生徒は、横のつながりをつくるのもあまりうまくなく、

生徒達の力でもなんとかできないでひねくれてしまうことがある。

 

教師の願いや求めが甘い!と考えれば早いのだが、

それはあまりに楽観的で、

『学び合い』実践者が陥りやすいと、個人的にはかなり危惧している。

 

確かに大人になったら先生はいないし、

自分で何とかできるようにならなければならない。

 

ただ、何とかするための自信のような力は

経験やそれこそ自己肯定感みたいなものも必要になってくる。

 

それに、これまで生徒たちは、

先生の指示で何とかすることを身に付けてきている。

そういう指導を現にまだしているし、

そういった生徒がいることは、やはりちゃんと認めて向き合わなければならない。

 

そういった生徒に対しては、自分たちでというのは(状況や課題などにもよるだろうが)

ハードルが高いことも少なくない。

 

だから、その生徒の状況を見取り、関わり方を判断する必要がある。

 

今回はクラスの生徒で、

進路に向けた活動をしていく大切な時期でもある。

 

それなのにその生徒は、

自分で何とかする自信を持っていない。

これ自体は学校での指導が危機的な状況を生んでいることを示してはいるが、

その生徒は目の前にいるわけで、

担任としては、うまい具合の梯子掛けを探していかなければならない。

 

そして、

残りの短い時間で、自分で何とかする力を育てるためにもまず、

その生徒が安心・安全だと感じられるような関わり(生徒個人へ、生徒集団へ)

を常に意識しておかなければならない。

【横のつながりと同等に重視されるべき、縦のつながり。】

クラスでも、『学び合い』の考え方は重要な柱として活かしている。

 

教師一人では成せないことも、

生徒集団とであれば成せてしまう。

 

だから生徒どうしの、いわゆる「横のつながり」をつくれるように

リーダーとしての働きかけを続けてきた。

 

ただ、今日は「縦のつながり」の重要性を強く感じた。

 

簡単に解釈すると、

先生に教えてもらってできるようになりたい

という生徒がいるのだ。

 

この生徒は、横のつながりをつくるのもあまりうまくなく、

生徒達の力でもなんとかできないでひねくれてしまうことがある。

 

教師の願いや求めが甘い!と考えれば早いのだが、

それはあまりに楽観的で、

『学び合い』実践者が陥りやすいと、個人的にはかなり危惧している。

 

確かに大人になったら先生はいないし、

自分で何とかできるようにならなければならない。

 

ただ、何とかするための自信のような力は

経験やそれこそ自己肯定感みたいなものも必要になってくる。

 

それに、これまで生徒たちは、

先生の指示で何とかすることを身に付けてきている。

そういう指導を現にまだしているし、

そういった生徒がいることは、やはりちゃんと認めて向き合わなければならない。

 

そういった生徒に対しては、自分たちでというのは(状況や課題などにもよるだろうが)

ハードルが高いことも少なくない。

 

だから、その生徒の状況を見取り、関わり方を判断する必要がある。

 

今回はクラスの生徒で、

進路に向けた活動をしていく大切な時期でもある。

 

それなのにその生徒は、

自分で何とかする自信を持っていない。

これ自体は学校での指導が危機的な状況を生んでいることを示してはいるが、

その生徒は目の前にいるわけで、

担任としては、うまい具合の梯子掛けを探していかなければならない。

 

そして、

残りの短い時間で、自分で何とかする力を育てるためにもまず、

その生徒が安心・安全だと感じられるような関わり(生徒個人へ、生徒集団へ)

を常に意識しておかなければならない。

【協働的な学びを促進させる教師の力と、ねらいから考えるデザイン。】

協働的な学びを、あまりに大胆に分類するとしたら

「教師がつくったグループによる学び」と

「生徒が自らつくったグループまたは個人での学び」とに分けられると思う。

 

これらにはそれぞれ利点欠点があり、

「教師がつくったグループによる学び」では

生徒の人間関係というハードルがある。

だから、グループ全員がわかるように、といってももともと人間関係がない状態から

始まるので、簡単に、またはこっそりと見捨ててしまうことがある。

一方で「生徒が自らつくったグループまたは個人的な学び」では

教師の集団を動かす力量が必要で、教師にとってはこれがハードルとなる。

 

結局、どちらがよいというのはなくて、

ねらいに沿って、クラスの状態や段階として、

それぞれの利点や欠点を意識した上で

学びやグループのつくり方をデザインする必要がある。

 

もちろん、自分で考えて行動する生徒を育てることを最終的に目指すときには

自分たちでグループをつくったりさせることを念頭に置きたいが、

つくられたグループで課題を解決することが求められる場面も実社会ではあることを考えると、

やはりねらいに沿って手段を考えることが肝要である。

【授業で資質・能力を育むということ。】

同僚の研究授業を見学した。

 

次期学習指導要領を意識して、

資質・能力の3つの柱をいかに育むか、ということを

国語の授業として研究している。

 

教科についてすごく勉強されていて、

最終的に見に付けさせたい力を明確にしながら

単元の授業を構成しているところはとても勉強になった。

 

生徒への働きかけや授業の構成の仕方(生徒の発言によって授業を展開している)など、

勉強になることが多かった。

 

改善策として、

大きな目標(最終的に見に付けさせたい力)に向かうための

小さな目標(その時間に何を理解して、何ができるようになることを目指すのか)

ということを明確にすることを提案した。

 

そして、少し残念に感じたことは、

生徒の状態を観察して、生徒の状態ありきで授業の展開や研究協議が成されなかったことだ。

 

確かに構成は素晴らしい。

例えると、“線路”はきれいにひかれている。

ただ、その線路の上を生徒が走ることはなく、

教師がそれを引っ張り続けていた。

 

これでは生徒はいつまでたっても走れるようにはならない。

脳科学的にもわかってきていることのようだが、

実際にできるようになるために「取り組んで」いくことで初めて

自分の身になる。

 

いわゆる「演習」や「練習」をさせる機会が、

授業は圧倒的に少ない。

 

そして、なぜか授業になると教師は

そのことを忘れてしまったかのような指導をする。

授業も部活動も本質的には同じことなはずなのに。

 

これでは、生徒の持っている資質・能力が伸びていくことはない。

 

だからこそ大切なのが

主体的・対話的で深い学び(いわゆるアクティブ・ラーニング)の視点での

授業改善というやつだろう。

学びを振り返り次に生かしたり、自己の学びを調整する力を育む、ことだろう。

 

でも、文科省の文言ではやはり伝わりにくい。

もうほんとに、

生徒が試行錯誤する練習の場を、これまでと比べて圧倒的に増やしていく。

これ以上でもこれ以下でもない。

そうして教師の前で失敗させ、そして成功させる、これを繰り返すことだ。

 

 

今回の研究授業には、中学校の先生も参加していて、

すごい先生であることは確かだが、

この視点の優先度がまだ低い。

まあ中学では生徒は、積極的に聞いている(ように見える)のかもしれないが

もっと効果的な時間にすべきだ。

 

意識の高い先生でもこの程度だと

まだまだ道のりは長いように感じた。

 

 

まあ、まだやるべきことがたくさん残っていることは

嬉しいことだなあ。

【失敗、改善。その先。】

授業は生き物だ、とはよく言ったもので、

クラスでの活動は、一定の傾向性はあっても毎回変わる。

そして、完璧だな~と思う状態には決してならない。

 

なんたって、授業もクラスも、

人で、人がつくっているものだから。

もはや人そのものだ。

 

ただ、ベストを目指して(ベターにするために)

授業を改善しようと試みていく。

 

この主語は、生徒であり、教師でもある。

 

いま、日々の授業のなかで

集団として成長させるようにさまざまな失敗を続けながら、

授業を改善しようとしている。

教師はよい点や課題を見つけて共有し、

生徒に改善するよう求める。

ここでは教師はリーダーシップを発揮して、

“なぜ”それを求めるのかを伝え、行動を可視化しながら

集団を動かしていく。

 

こんな感じで授業を改善しようと試みてはいるが、

なかなか「よく」なるような気はしない。

 

週に2時間しかないことや、そもそも個々の成長は長期的に見るべきものである

という言い訳をしないで生徒集団と向き合っていると、

振り返りの質が上がっていたり、前向きに取り組むようになっていたりという

小さな変化に気がつく。

 

ただ、自分には「この先」が見えない。

 

今は、クラスの状況によっては

教師が梯子掛けとして介入して、こうやって解決していったらいい

という模範的な行動をしたりする。

 

一方で、どこかのタイミングで生徒へと手放し

生徒たちで解決してみる、という場へと移行していかなければならない。

 

いつまでも「先生」はいない。

 

このタイミングがいつなのか、どの程度の距離感が適正か、

自分は感覚としてすらつかめていないので、

今は小さくPDCAサイクルを回して、改善していくしかない。

 

生徒は実験台ではないが、

人間が答えのない課題を解決していくには、

高速で試行錯誤を繰り返していくしかないことを

先輩として示していこうと思う。

【人の道を語る?】

教師が語るということ。

 

それは人の道を教えるということ。

 

ただ、これってやっぱり、

少し“大げさな”ことなのかもしれない。

 

これまで、

「人として、認め合ったり助け合ったりする生き方」

のよさとその必要性を伝えようとしてきて、

さまざまに言い換えてきたけれども、

昨日と今日の授業での語りが一番生徒に刺さった気がする。

この二時間での生徒の動きの変化の起こり方は、

これまでにないくらい生き生きとしたものだった。

 

昨日の授業の様子では、生徒はどこか他人事で

一人も見捨てない、とか、誰かを助ける、とかいうことにまで

私たちに求めないでよとでも言いたいような、けれども

少し自信がないけれど誰かを助けたほうがいいという姿勢も垣間見られる、

なんとも微妙な、歯がゆい状態であった。

 

見かねた私は、

「誰ともつながれない、やりきれない、助けを求められない、という人は、

 このままいってしまったら社会に出てそのままになってしまう。

 そして、そのような状態がこのクラスにあるとするのなら、

 君たちが大人になって何かできないことがあったり困ったりしたときに

 助けをもらえない状況をつくりかねない。先生はそれがすごく嫌だ。

 その力を練習できるのは、いましかない。」

と語りました。

 

ここには、これまで関わってきた生徒だからこその、“思い”が乗っかっていた。

 

そして、だからこそ

結果にとことんこだわって、小テストで満点を取ること

を強く求めた。

 

すると、生徒達の様子が明らかに変わった。

「ああ、もうやるしかないんだなぁ」

と言わんばかりに、

小さな行動の変化を見せた。

 

「人として、やっぱりこうすべきだ。」

 

これが、人の道を、もっと言うと自分の道として

語るということなのだと感じた。

【自己肯定感を育むためには、教師を受けとめなければならない。】

今、私立中高一貫の先生(副教頭の役職で活躍中)に相談役になってもらい、

校内の教員研修や組織づくりの具体的な運びを検討している。

 

大筋のデザインは、

①核になる職員に「受けとめられる」ことを体感してもらい

 その在り方を習得してもらう

②全体研修で職員全員に「受けとめられる」ことを体感してもらう

③核になる職員を中心としながら「受けとめ合う」組織を維持し文化として根付かせる

といったものだ。

 

生徒の自己肯定感を高めることも、

探究活動のなかで生徒の力を引き出して伸ばすのも、

安心・安全の場というか、受けとめられる環境が

先ず以て重要になってくる。

 

特にうちの学校では

自己肯定感が低い生徒が多くみられる(というか感じる)ため、

教室で生徒の存在がまず積極的に「受けとめられる」ことがとても重要になる。

 

それによって、生徒集団(学級集団)も「受けとめ合う」ように成長していく。

 

こうやって安心・安全で、ありのまま受けとめられることによって

自己肯定感が高められる場をつくる。

 

こんな感じ。

 

そこでカギになるのは、

「教師が生徒の存在を(対等な存在として)まず積極的に受けとめる」

ということ。

 

個の大切さを今日強く感じた。

 

あるクラスで授業中、いつも通り存在を尊重しつつ

頑張って取り組んでいる姿をまず承認していく。

 

そんな生徒の一人が、今日も頑張ったと言わんばかりに

授業後教卓まで来た。

 

少し話していたら、次の授業の先生が来て

プロジェクタのセッティングを始めた。

 

その生徒はその流れで、教卓でスマホをいじっていた。

すると、その先生は、

その生徒がまるでいないかのようにセッティングを続けていった。

 

そしてその生徒が、

「じゃまだなー」と

悪気もなくぼやくと、

その先生に「じぇまなのはお前だよ!」と

まあまあ強めに注意(?)をされた。

 

その生徒は落ち込んだような様子で、なにも言わなくなり

いたたまれない表情で、そのまま黙って教卓でスマホをいじっていた。

 

とても悲しくなった。

自分があれだけ精神を使って自己肯定感を高めようと働きかけている一方で、

ああやって生徒と接している先生もいるんだな、と。

それ以上に、あの生徒の様子を見ていて、子どもだからと上から理不尽なコミュニケーションをとられ、

いたたまれない様子の生徒を見ていて悲しくなった。

 

ただ、

その先生は悪い人ではなく、

他の先生が嫌がる仕事も積極的に引き受けてくれる先生だ。

再任用にもかかわらずにフルで、それ以上に働いてくださっている。

 

そして自分の普段の態度を省みて、

その先生に対して「受けとめる」接し方ができているかというと

全然そんなことはなく、「仕事があるから早く話してくれー」と思いながら

話しを聞いている自分もいたことを思い出す。

それはきっと表情に出ているだろうし、その先生にも少なからず伝わってしまっていると思う。

 

仕事だから、というのは確かにあると思うが、

それがその先生から余裕を奪い、「受けとめられる」感覚を

忘れさせる要因にもなっているかと思うと、深く反省した。

 

最終目標に、生徒の自己肯定感を高めることがあるとするのなら、

職員室で先生が受けとめられることを実感できる環境をつくることも

大切な仕事なんだと感じた。

 

遠回りになるかもしれないが、

そうしないとせっかくの自分の働きかけの効果は相殺されてしまうだろうし、

そもそも、

人が生き生きと生きる社会にしたくて、そのためには受けとめ合う文化は必須だから

職場からそうやって文化を変えていくことは、自分の理念と相反するものではなく

逆に向かうべき方向でもあるはずだ。

 

だからこそ、まずは小さなことでも日々の関わりのなかから、

そして研修会を通して、組織づくりに力を入れたい。

 

そのために「愛」を、自分から始めるべきだ。

 

そのために、心を整えておかねば。