もし一介の若手教師が『教育』について追究し始めたら

関心のある事 ①生き方,夢について ②探究のプロセスを重視した授業と資質・能力について ③『学び合い』について ④総合的な「探究」の時間について (神奈川県立高校の理科教師 3年目。)

【生き方,夢について(教育)】

「学校行事(文化祭)で、育てたい。」

 

特に、現任校の生徒は、自分から動き出す人が少ない。
やりたい気持ちはあるのだけれど、結局は誰かが動いて、指示を出して引っ張ってくれるのを待っている。

 

生徒には、「自分で人生をより楽しいものにしていける人」に成長してほしい。
ただ、すべての生徒がそのように成長する準備ができているとは思わない。
しかし、その準備ができている人の何人かが手を挙げ、責任をもってやり遂げると「決断」する必要があると考えている。

 

「決断」ができた人たちには、全力でバックアップをして、相談に乗りながらできる限りのアドバイスをしていく。いわゆる‟指示”を出すことはしない。
そしてその人たちが中心となってクラスのメンバーを巻き込んでいく。そして、この段階では「決断」ができなかった生徒も、「自分で動かしていく」とはどういうことか、ということは身近で見ることができる。


つまり、これまで教師がやっていた「ここはこうして。」「材料はこれを買おう。」「模擬店は何をやりたい?」というのをすべて生徒がやる。
本当に「自分で動かしていく」ことを学ぶ場を、できるだけ多くつくってあげたい。

 

では、「決断」ができた人がいなかったらどうするか。
これまで通り、教師が指示を出していく、生徒に前に立つように言って司会をやらせる、生徒にやらせるという名目で教師が引っ張り率先していくということはしない。
このようなことをすれば、文化祭などに参加して活動するのは楽しい!と思う生徒を増やすことができるかもしれない。

そして、それがいつか自分たちでやろうと思ったときの良い経験(自分の‟やりたい”を実行していく楽しさに気づくなど)になるかもしれない。

この、かもしれないの犠牲になっているのが、「自分で動かしていく」ことを学ぶことである。このようなことをしてしまうと、「自分で動かさなければやりたいことができない」という意識、「自分で動かすということがどういうことなのか」ということを本当に理解する生徒を育てることはできない。そこにはいつでも「大人」がいて、動かしてくれるから。

「やり方」は理解しても、自分でやりたいことを、自分が動くことで動かしていくということは学べない。そして、思うようにならない環境に対して嘆くことが‟生きている”ということだと勘違いするようなる。
学校では始めに「やり方」を教える。これは逆だと思っている。あるいは、「やり方」を教えることに重点を置きすぎだと思っている。

 

今年の文化祭は、直前になるまで「決断」ができた人はいなかった。

そして先生が何もやってくれないものだから、クラスの数名がぎりぎりで動き出した。

今、責任をもってやり遂げようとしている。この人たちはすでに「失敗」に気づいている。そして、動き出そうとはしたものの、行動には移せなかった人もいて、この人は「後悔」している。


大事なのは、「失敗」に気づかせること、「後悔」を生かさなければ繰り返すことに気づかせること、そのためにそれを振り返らせること。その時、生徒たち一人ひとりの内側に出た感情を大切にしたい。