もし一介の若手教師が『教育』について追究し始めたら

関心のある事 ①生き方,夢について ②探究のプロセスを重視した授業と資質・能力について ③『学び合い』について ④総合的な「探究」の時間について (神奈川県立高校の理科教師 3年目。)

【カリキュラム・マネジメントを推進するための3つの手立て】

三年生の担任で三者面談期間という多忙な日々が続いていたが、

やっぱり関心の中心にあるのは、学校のカリキュラム・マネジメントを

いかに推進するか、ということであった。

 

以前のブログに、カリキュラム・マネジメントを推進する理由

ということをまとめた。
yoake-zeyo.hatenablog.com

 

その理由を要約すると、

『探究する力をつけさせるために、教育課程の中核に総合的な探究の時間を据える方針を学校に残したい』

ということである。

 

そのためのビジョンというか、

具体的な運びについて、現在練って相談をしている最中なのだが、

今考えていることを示してさらにブラッシュアップさせるために

ここで言語化させておきたい。

 

 

目指す学校の在り方として、

教育目標実現に向けた効果的な教育実践が成される学校

というのを掲げたい。しかしどうしても抽象化した表現なので

次の四つを具体例として挙げる。

一つは人として尊敬し信頼することによって自己受容を促したり承認し合うことを大切にする生徒や集団への教師の接し方。

二つめは生徒に探究する力を育むことのできる教科指導。

三つめは自分の可能性などに気付き生き方を考える時間として総合的な探究の時間を中核に据えてカリキュラム・マネジメントを行う。

四つめは確実に目標を実現させるためプロとして教育活動に力を注ぐために、業務が明確に整理される。

 

これを実現させるための企みの大きな柱は二つで、

一つが、公開授業研究会

もう一つが、総合的な探究の時間

である。

 

一つ目の公開授業研究会は、

町の中学校の教員も招きながら授業研究会を行うものである。

 

この授業研究会で実現させたいのは、

目標となる目指す生徒像を実現させる(身に付けさせたい力を身に付けさせる)ために

各教科の特性を生かした授業の在り方を、教科ごとに検討していく

という、研究会本来の姿である。

研究というのであるから、目標があり、仮説を立て、

実現のための活動があり、それを評価することで、

研究仮説を検証することを大前提とする。

 

もう一つの柱である総合的な探究の時間では、

教員の意識改善を目指したい。

意識改善と言っても、まったくもって意識がなっていない、と言いたいのではなく、

むしろ情報を得る機会がないために、意識を持てないだけの先生も多い。

だからこそ、使命感として

教員に、目標に向かう方向性を示し、導くことが自分の仕事であると感じている。

 

そして、これら二つの柱のベースとなっているのは、

対話によりチームで課題を解決していく組織である。

 

この二つの柱と対話のある組織づくりが

どのような手順で進めることによって効果的に推し進められるかはわからないから、

とにかくできそうなところから進めていきたい。

 

その際、先生たちの困り感を意識したり、

外からの圧力をうまく使ったらしながら

伝えていきたい。 

【『学び合い』に大切なこと、情熱をもって生きるために大切なこと】

『学び合い』の考え方で授業をするとき、最も大切なこと。

このことが感覚として最近つかめてきたので、言語化してみたい。

 

ただ、それ以前に

・生徒集団に責任を移行すること

・明確な目標を提示すること

・課題の難易度

などが必要条件としてあることを、

困難校と呼ばれる学校で実践するなかで失敗から学んできた。

 

しかしこれら条件と並ぶ必要条件として、そしてその中でもおそらく最上位のものとして大切なものが、

『授業者のエゴ』

である。

 

この表現の仕方はおそらく人それぞれだと思う。

 

話しは変わるが、最近

プロフェッショナル仕事の流儀「高木琢也」の回を観た。

 

この人の今の生き方を通して二つのことを感じた。

 

一つが、この人がこれだけ熱をもって生きているのは、この人の中に

『エゴ』=自分が大切だと思うことを実現させて幸せを生もうとしていること

があるからである。

そしてこの人はきっと、それを無意識にもっている。

自分のモチベーションを保つために、この『エゴ』を常に意識することができれば、

それがいつも拠り所になる。

 

そして二つ目が、

教育は個人、または組織のエゴを刷り込むことによって

他者を幸せにしようとする試みである、ということ。

 

そしてこの二つで面白いところは、

教育者は、必然的にエゴを持っている必要がある、ということ。

 

『学び合い』の授業で教員が語るのは、

あくまでエゴであって、

人の道として、こうやって生きるといいよ!ということを

あくまでエゴとして伝えているのである。

そしてそれを実践できる場を用意し、

そのエゴを理解できる人によって集団が成長し、

教員のエゴの世界が実現する。

 

だから、

『学び合い』にとって

自分が情熱をもって生きるために

最も大切なのは、この『エゴ』を明確にしておくことだろうと感じている。

 

自分にとっての『エゴ』=幸せのために自分が大切だと思うこと は、

 

自分の頭で考えて判断し、自分の人生を生きること

他人とともに生きることの価値を自覚しながら自分の努力でできることを増やすこと

 

だと思っている。

 

これを拠り所とし、

こうやって生きろよ!幸せになるから!

と思いっきり伝えていきたい。

これにより多くの人が“洗脳”されると、世界はもっと面白く、平和になると思うから、

一人でも多くの人に、そしてより多くの人たちが“洗脳”されるように動き回ろうと思う。

 

そしてここには前提として

多様性という価値観が潜んでいるために

とても抽象的な表現で言語化している。

これは本当に重要なことで、この拠り所が具体、つまり方法論になってしまうと

生きづらい人を生んでしまう。

 

ただ、これを実現させるために重要なポイントのようなものを、

もう少し具体的にもっている必要がある。

自己肯定感などがそれである。そしてこれらはより明確にされるべきである。

この辺りもまた言語化したいな。

 

 

 

追伸

高木琢也はやっぱりかっこいいと思う。

無意識な部分もあるかもしれないが、その熱は多くの人につながっている。

そして、西川純はやっぱり教祖さまだなと思った。

自分の『エゴ』を実証的な根拠をもって実現させようとしている。

だから“洗脳”される人たちが続出している。

自分もその一人だろう。

だからこそ、この

圧倒的に多様性を認める世界を実現させたい。

そのためには“洗脳”が必要だよなあ、

そうだろう、教祖さま。

 

(西川純に、愛をもって)

 

【『学び合い』に大切なこと、情熱をもって生きるために大切なこと】

『学び合い』の考え方で授業をするとき、最も大切なこと。

このことが感覚として最近つかめてきたので、言語化してみたい。

 

ただ、それ以前に

・生徒集団に責任を移行すること

・明確な目標を提示すること

・課題の難易度

などが必要条件としてあることを、

困難校と呼ばれる学校で実践するなかで失敗から学んできた。

 

しかしこれら条件と並ぶ必要条件として、そしてその中でもおそらく最上位のものとして大切なものが、

『授業者のエゴ』

である。

 

この表現の仕方はおそらく人それぞれだと思う。

 

話しは変わるが、最近

プロフェッショナル仕事の流儀「高木琢也」の回を観た。

 

この人の今の生き方を通して二つのことを感じた。

 

一つが、この人がこれだけ熱をもって生きているのは、この人の中に

『エゴ』=自分が大切だと思うことを実現させて幸せを生もうとしていること

があるからである。

そしてこの人はきっと、それを無意識にもっている。

自分のモチベーションを保つために、この『エゴ』を常に意識することができれば、

それがいつも拠り所になる。

 

そして二つ目が、

教育は個人、または組織のエゴを刷り込むことによって

他者を幸せにしようとする試みである、ということ。

 

そしてこの二つで面白いところは、

教育者は、必然的にエゴを持っている必要がある、ということ。

 

『学び合い』の授業で教員が語るのは、

あくまでエゴであって、

人の道として、こうやって生きるといいよ!ということを

あくまでエゴとして伝えているのである。

そしてそれを実践できる場を用意し、

そのエゴを理解できる人によって集団が成長し、

教員のエゴの世界が実現する。

 

だから、

『学び合い』にとって

自分が情熱をもって生きるために

最も大切なのは、この『エゴ』を明確にしておくことだろうと感じている。

 

自分にとっての『エゴ』=幸せのために自分が大切だと思うこと は、

 

自分の頭で考えて判断し、自分の人生を生きること

他人とともに生きることの価値を自覚しながら自分の努力でできることを増やすこと

 

だと思っている。

 

これを拠り所とし、

こうやって生きろよ!幸せになるから!

と思いっきり伝えていきたい。

これにより多くの人が“洗脳”されると、世界はもっと面白く、平和になると思うから、

一人でも多くの人に、そしてより多くの人たちが“洗脳”されるように動き回ろうと思う。

 

そしてここには前提として

多様性という価値観が潜んでいるために

とても抽象的な表現で言語化している。

これは本当に重要なことで、この拠り所が具体、つまり方法論になってしまうと

生きづらい人を生んでしまう。

 

ただ、これを実現させるために重要なポイントのようなものを、

もう少し具体的にもっている必要がある。

自己肯定感などがそれである。そしてこれらはより明確にされるべきである。

この辺りもまた言語化したいな。

 

 

 

追伸

高木琢也はやっぱりかっこいいと思う。

無意識な部分もあるかもしれないが、その熱は多くの人につながっている。

そして、西川純はやっぱり教祖さまだなと思った。

自分の『エゴ』を実証的な根拠をもって実現させようとしている。

だから“洗脳”される人たちが続出している。

自分もその一人だろう。

だからこそ、この

圧倒的に多様性を認める世界を実現させたい。

そのためには“洗脳”が必要だよなあ、

そうだろう、教祖さま。

 

(西川純に、愛をもって)

 

【『学び合い』に大切なこと、情熱をもって生きるために大切なこと】

『学び合い』の考え方で授業をするとき、最も大切なこと。

このことが感覚として最近つかめてきたので、言語化してみたい。

 

ただ、それ以前に

・生徒集団に責任を移行すること

・明確な目標を提示すること

・課題の難易度

などが必要条件としてあることを、

困難校と呼ばれる学校で実践するなかで失敗から学んできた。

 

しかしこれら条件と並ぶ必要条件として、そしてその中でもおそらく最上位のものとして大切なものが、

『授業者のエゴ』

である。

 

この表現の仕方はおそらく人それぞれだと思う。

 

話しは変わるが、最近

プロフェッショナル仕事の流儀「高木琢也」の回を観た。

 

この人の今の生き方を通して二つのことを感じた。

 

一つが、この人がこれだけ熱をもって生きているのは、この人の中に

『エゴ』=自分が大切だと思うことを実現させて幸せを生もうとしていること

があるからである。

そしてこの人はきっと、それを無意識にもっている。

自分のモチベーションを保つために、この『エゴ』を常に意識することができれば、

それがいつも拠り所になる。

 

そして二つ目が、

教育は個人、または組織のエゴを刷り込むことによって

他者を幸せにしようとする試みである、ということ。

 

そしてこの二つで面白いところは、

教育者は、必然的にエゴを持っている必要がある、ということ。

 

『学び合い』の授業で教員が語るのは、

あくまでエゴであって、

人の道として、こうやって生きるといいよ!ということを

あくまでエゴとして伝えているのである。

そしてそれを実践できる場を用意し、

そのエゴを理解できる人によって集団が成長し、

教員のエゴの世界が実現する。

 

だから、

『学び合い』にとって

自分が情熱をもって生きるために

最も大切なのは、この『エゴ』を明確にしておくことだろうと感じている。

 

自分にとっての『エゴ』=幸せのために自分が大切だと思うこと は、

 

自分の頭で考えて判断し、自分の人生を生きること

他人とともに生きることの価値を自覚しながら自分の努力でできることを増やすこと

 

だと思っている。

 

これを拠り所とし、

こうやって生きろよ!幸せになるから!

と思いっきり伝えていきたい。

これにより多くの人が“洗脳”されると、世界はもっと面白く、平和になると思うから、

一人でも多くの人に、そしてより多くの人たちが“洗脳”されるように動き回ろうと思う。

 

そしてここには前提として

多様性という価値観が潜んでいるために

とても抽象的な表現で言語化している。

これは本当に重要なことで、この拠り所が具体、つまり方法論になってしまうと

生きづらい人を生んでしまう。

 

ただ、これを実現させるために重要なポイントのようなものを、

もう少し具体的にもっている必要がある。

自己肯定感などがそれである。そしてこれらはより明確にされるべきである。

この辺りもまた言語化したいな。

 

 

 

追伸

高木琢也はやっぱりかっこいいと思う。

無意識な部分もあるかもしれないが、その熱は多くの人につながっている。

そして、西川純はやっぱり教祖さまだなと思った。

自分の『エゴ』を実証的な根拠をもって実現させようとしている。

だから“洗脳”される人たちが続出している。

自分もその一人だろう。

だからこそ、この

圧倒的に多様性を認める世界を実現させたい。

そのためには“洗脳”が必要だよなあ、

そうだろう、教祖さま。

 

(西川純に、愛をもって)

 

【『学び合い』に大切なこと、情熱をもって生きるために大切なこと】

『学び合い』の考え方で授業をするとき、最も大切なこと。

このことが感覚として最近つかめてきたので、言語化してみたい。

 

ただ、それ以前に

・生徒集団に責任を移行すること

・明確な目標を提示すること

・課題の難易度

などが必要条件としてあることを、

困難校と呼ばれる学校で実践するなかで失敗から学んできた。

 

しかしこれら条件と並ぶ必要条件として、そしてその中でもおそらく最上位のものとして大切なものが、

『授業者のエゴ』

である。

 

この表現の仕方はおそらく人それぞれだと思う。

 

話しは変わるが、最近

プロフェッショナル仕事の流儀「高木琢也」の回を観た。

 

この人の今の生き方を通して二つのことを感じた。

 

一つが、この人がこれだけ熱をもって生きているのは、この人の中に

『エゴ』=自分が大切だと思うことを実現させて幸せを生もうとしていること

があるからである。

そしてこの人はきっと、それを無意識にもっている。

自分のモチベーションを保つために、この『エゴ』を常に意識することができれば、

それがいつも拠り所になる。

 

そして二つ目が、

教育は個人、または組織のエゴを刷り込むことによって

他者を幸せにしようとする試みである、ということ。

 

そしてこの二つで面白いところは、

教育者は、必然的にエゴを持っている必要がある、ということ。

 

『学び合い』の授業で教員が語るのは、

あくまでエゴであって、

人の道として、こうやって生きるといいよ!ということを

あくまでエゴとして伝えているのである。

そしてそれを実践できる場を用意し、

そのエゴを理解できる人によって集団が成長し、

教員のエゴの世界が実現する。

 

だから、

『学び合い』にとって

自分が情熱をもって生きるために

最も大切なのは、この『エゴ』を明確にしておくことだろうと感じている。

 

自分にとっての『エゴ』=幸せのために自分が大切だと思うこと は、

 

自分の頭で考えて判断し、自分の人生を生きること

他人とともに生きることの価値を自覚しながら自分の努力でできることを増やすこと

 

だと思っている。

 

これを拠り所とし、

こうやって生きろよ!幸せになるから!

と思いっきり伝えていきたい。

これにより多くの人が“洗脳”されると、世界はもっと面白く、平和になると思うから、

一人でも多くの人に、そしてより多くの人たちが“洗脳”されるように動き回ろうと思う。

 

そしてここには前提として

多様性という価値観が潜んでいるために

とても抽象的な表現で言語化している。

これは本当に重要なことで、この拠り所が具体、つまり方法論になってしまうと

生きづらい人を生んでしまう。

 

ただ、これを実現させるために重要なポイントのようなものを、

もう少し具体的にもっている必要がある。

自己肯定感などがそれである。そしてこれらはより明確にされるべきである。

この辺りもまた言語化したいな。

 

 

 

追伸

高木琢也はやっぱりかっこいいと思う。

無意識な部分もあるかもしれないが、その熱は多くの人につながっている。

そして、西川純はやっぱり教祖さまだなと思った。

自分の『エゴ』を実証的な根拠をもって実現させようとしている。

だから“洗脳”される人たちが続出している。

自分もその一人だろう。

だからこそ、この

圧倒的に多様性を認める世界を実現させたい。

そのためには“洗脳”が必要だよなあ、

そうだろう、教祖さま。

 

(西川純に、愛をもって)

 

【事実を挙げる力、根拠を述べる力】

試験を採点していて、

理科の授業での探究する力をつけるための取り組みについて感じることがあった。


探究する力で最も重視すべきは、
問いを持つ力
である。

この問いを立てる能力を養うことによって、
問題をより効果的に解決したり、自分をより成長させたりすることが可能になる。

そしてこの問いを立てる練習として、
進路多様校の本校でまず実施しているのは、
「事実を挙げる」
という練習だ。

この事実があって初めて問いが立つのだが、
この事実を挙げる練習は、普段の実験や観察の中に組み込むことが比較的容易で、
身に付いている生徒も多い。(定期試験で事実を挙げる問題をつくった。)

さらにその問題に付け加えたのが、
問いを立てる、と、その問いに対して自分なりの予想(仮説)を根拠をもとにして立てる
というものだった。

課題が残ったのは、
根拠をもとにする
という点。
ここはこれからさらに練習が必要なところだ。

もう一つ採点をしていて気になったことが、
「事実のレベル」
についてである。

まず、この事実には判断がは加わりやすい。
細胞の写真のみを貼り、この細胞から読み取れる事実を挙げよ、という問題を出したとき、
『これはタマネギの細胞である』
というのは、あくまで判断である。
このときタマネギであると判断した要素こそが、ここで挙げるべき事実である。

そして、さらに採点の正誤判断を難しくさせたのは、
「知識」の存在である。

『この細胞には核が存在している』
という解答は、一見核というのを勝手に判断しているようだが、
核のように定義がしっかりしているものは、事実の中に入れることができる。
『丸いモノがある』という解答も同じで、
あくまで丸という言葉の定義があるから成り立っている。

この辺りを教員が押さえておくことは、
今後「明示的な指導」を推し進める中では重要になってくるだろう。

【事実を挙げる力、根拠を述べる力】

試験を採点していて、

理科の授業での探究する力をつけるための取り組みについて感じることがあった。


探究する力で最も重視すべきは、
問いを持つ力
である。

この問いを立てる能力を養うことによって、
問題をより効果的に解決したり、自分をより成長させたりすることが可能になる。

そしてこの問いを立てる練習として、
進路多様校の本校でまず実施しているのは、
「事実を挙げる」
という練習だ。

この事実があって初めて問いが立つのだが、
この事実を挙げる練習は、普段の実験や観察の中に組み込むことが比較的容易で、
身に付いている生徒も多い。(定期試験で事実を挙げる問題をつくった。)

さらにその問題に付け加えたのが、
問いを立てる、と、その問いに対して自分なりの予想(仮説)を根拠をもとにして立てる
というものだった。

課題が残ったのは、
根拠をもとにする
という点。
ここはこれからさらに練習が必要なところだ。

もう一つ採点をしていて気になったことが、
「事実のレベル」
についてである。

まず、この事実には判断がは加わりやすい。
細胞の写真のみを貼り、この細胞から読み取れる事実を挙げよ、という問題を出したとき、
『これはタマネギの細胞である』
というのは、あくまで判断である。
このときタマネギであると判断した要素こそが、ここで挙げるべき事実である。

そして、さらに採点の正誤判断を難しくさせたのは、
「知識」の存在である。

『この細胞には核が存在している』
という解答は、一見核というのを勝手に判断しているようだが、
核のように定義がしっかりしているものは、事実の中に入れることができる。
『丸いモノがある』という解答も同じで、
あくまで丸という言葉の定義があるから成り立っている。

この辺りを教員が押さえておくことは、
今後「明示的な指導」を推し進める中では重要になってくるだろう。